サンバ(Samba)は、ブラジルの代表的な音楽ジャンルの一つです。
日本では、サンバと言うと、羽根をつけた豪華な衣装を身に着けた女性の踊る“ダンス”をイメージされる方が多のですが、それだけではなく音楽全体を指します。ブラジルでは毎年12月2日をサンバの日と定められており、この日に翌年2月前後に行われるサンバカーニバル曲集が発売されるほか、多くのイベントも開催されます。



概要

サンバは、リオ・デ・ジャネイロでアフリカ系黒人の奴隷労働者たちが持ち込んだ、Batucada(バトゥカーダ、アフリカ音楽の影響を受けたブラジルの打楽器のみの構成によるサンバ)などの音楽をもとに、ヨーロッパの宮廷音楽の影響を受けたショーロやルンドゥーなどの音楽要素がとりこまれ1910年代に確立しされました。
1930年代に普及と隆盛を迎え、ブラジルを代表する音楽ジャンルとなりました。
もともとは黒人を中心とする「奴隷労働者階級の音楽」なので、歌われる内容といえば、生活そのものを題材としたもの、人種差別や政治体制への批判などが中心でしたが、後に白人を中心に比較的穏やかなリズムで叙情的な内容も歌われる、Samba Canção(サンバ・カンサゥン)なども生まれました。サンバ・カンサゥンはさらに発展し、1950年代後半から1960年代前半には、アメリカの音楽などの影響を受けた中産階級の若者たちを中心に、リズムをさらにシンプルにし、叙情的な歌詞をのせて歌うサンバ・ボサノヴァ (Samba Bossa Nova)が成立し流行しました。
また1960年代から1970年代にかけては、リオデジャネイロの黒人文化だったモーホのサンバが再発見され、受入れられて行き、1980年代には、数人編成で演奏するスタイルPagode(パゴージ)が成立しました。大規模なカルナヴァル(カーニバル)のサンバに対して、個人パーティー的で周囲の皆で共に合唱できる気軽さが受け、大流行しています。

【ダンスとしてのサンバ】
サンバダンスは17世紀に、バイーアに住んでいたアフリカ人奴隷の踊りが元となっています。その後、ポルトガルの文化的要素が融合し、リズムや踊り方が変化しました。音楽を演奏しながら周りで手を叩きながら輪を作って踊り、交代で人が中に入って踊るSamba de Roda(サンバ・ジ・ホーダ、サンバの輪)が、アフリカ系ブラジル人の地域的大衆文化の一大要素へと発展しました。
バイーアからリオへ人々が移住するとともに、サンバ・ジ・ホーダは、20世紀のブラジルの国家的アイデンティティーの最大のシンボルとなった都会のサンバの進化にも影響を与えました。
サンバの踊り方は足や腰の動きを基本とし、ほとんど即興となります。現在のサンバショーにおける振り付け(コレオグラフィー)は現代的かつ欧米のダンスショーの形式を取り入れたもので、あくまでもサンバは基本的に即興の踊りが中心で、またその醍醐味であるとされています。
サンバパレードにおけるダンスはサンバ・ノ・ペという、いわゆるサンバステップをもとに様々なバリエーションを個人個人が表現することが本来のサンバのダンスといわれています。なお、サンバパレードにおけるサンバステップに長けたソロダンサーは、Passista(パシスタ)といわれます。
また、サンバはカルナヴァルだけでなく、サロンやダンスホールで行われるペアダンスもあります。ただし同じペアダンスでも、社交ダンスや競技ダンスのサンバとはまったく異なり、ブラジルにおけるサンバのペアダンスは、Samba de Gafieira(日本での略称はガフィエイラ、ガフィエラ、ブラジル本国ではサンバ)といわれ、日本での愛好家も多くいます。

【カーニバルのサンバ】
リオをはじめとするブラジルの各都市で行われるカルナヴァルでは、毎年、Escola de Samba(エスコーラ・ジ・サンバ(略してエスコーラ)というチーム単位で順位、優勝を競い合います。
各エスコーラは、カルナヴァルが終るとすぐに翌年のテーマを決め、それに添って台本が作られ、曲や歌詞の作成を行い、どの曲が相応しいかエスコーラ内でコンテストして、それが決定するとカルナヴァレスコ(パレードの総合監督)によってアーラ(グループダンス)やアレゴリア(山車)の数を決め、それらのファンタジア(衣装)などをデザイン。曲が決定すると、クアドラという練習会場で、Bateria(バテリア)という打楽器隊によって練習が繰り返され、そこでダンスも練習します。
毎年、これによってサンバ・パレードが繰り広げられ、パレードの審査を行うコンテストによって順位が決定されます。これらの大規模なパレードはかつてはその都市のメインストリートで行われていましたが、1983年にリオデジャネイロにおいてサンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイが建設されて以降、大都市では次々と専用スタジアムであるサンボードロモが建設され、ここでパレードが行われることとなりました。
また、サンバをやっている人を総称してSambista(サンビスタ)と言います。日本ではサンバチームで活動している人を中心に、何らかの形でサンバに関わっている人すべてをそう呼ぶ場合がありますが、サンバはやっているがサンバの曲や演奏方法の違い、またバテリアの構成や人数編成などを知らない人をも広義でサンビスタと呼ぶことも多い。しかしこれは適切ではなく、あくまでもサンバが好きで好きでたまらず、サンバについてよく理解し、損得勘定関係なく身体の髄からサンバが沁みこんでいるような人のみを指して、Sambistaと呼ぶのが正しいとされています。

サンバの背景と歴史

1500年にポルトガルによってブラジルが“発見”されて以降、ポルトガルはアフリカ西海岸を中継地とし、アンゴラやベニン、コンゴ、モザンビークを植民地とし、そうした種族の異なるアフリカ人奴隷をブラジルに連れて行きました。
1700年当時にはサンバはリオに限らず他の都市でも息吹いて、サンパウロではピラポーラ地区をはじめとして“コンガーダ”や“バトゥーキ”といった多様なリズムが生まれた。サンバはそれぞれの地域で異なるスタイルが生まれていました。

“Samba”という名称が初めて明らかになったのは、1838年にカトリック教会のLopes Gama神父が“Samba d'almocreve”と称して、奴隷の文化として新聞に紹介したことによるものでした。この頃のサンバはアフロ文化に根づいたもので、現在のように洗練されたものではありませんでした。

当初カルナヴァル(カーニバル)は、ブラジルでもポルトガル人によって行われた宮殿内で水を掛け合うなどといった乱痴気騒ぎに近い祭りであったと記録されています。水は悪霊や災禍を追い払うという意味をもっていたためとされ、一般市民も路上で、水だけでなく灰や小麦粉などもかけ合い、ルールもなにも無く、人種や年齢など関係なくすべての人々が楽しんでいました。

1763年にブラジルはサルヴァドール(バイーア)からリオデジャネイロへ遷都。次第にリオへ奴隷が流入されました。

1800年代になると、カルナヴァルのシンボルとして“Rei Momo”(ヘイ・モモ、カーニバル王国の王様)が誕生。1850年に“ゼー・ペレイラ”というカルナヴァル伝説の男が誕生、ブロコ・コルドンィスといったグループが彼を讃えて行進しました。当時はまだ異なる人種同士が一緒にパレードすることはなく、“タンボール”や“ボンボ”、“ザブンバ”といった楽器を使ってパレードを行っていました。

1888年には奴隷制度が全廃。1902年にリオの都市整備計画が実行され、バイーアはじめペルナンブーコなど各地にいた奴隷たちがリオ市内に移住しはじめ,現在のファヴェーラであるモーホ(丘)と呼ばれる居住区が形成されていいきました。
当時リオ市内でバイーア出身の女性(主におばさん)をバイアーナといい、“サンバの母”(サンバを生み出した存在)とされているます。彼女達は“Tia”(おばさん)と呼ばれ、彼女たちが自宅でパーティーを開き、多くの人たちをもてなしていました。中でも有名なのは“チア・シアータ”で、彼女の家にはジョアン・ダ・バイアーナ、エイトール・ドス・プラゼーレス、ピシンギーニャ、シニョー、そしてドンガといった、現在のサンバやショーロのルーツを築いたとされる人物が集まっていました。 この頃のカルナヴァルでは、まだサンバは主流ではなく、“マルシャ”や“マルシャ・ハンショ”など数多くのスタイルが乱雑に存在していました。
一般的に最初のサンバといわれる作品は、1916年12月16日登録、1917年発売のドンガ&マウロ・ジ・アルメイダ作“ペロ・テレフォーニ”(“電話で”の意)といわれています。
1920年、それぞれのCordaõ(グループ)が大きくなったことで、それぞれBloco(ブロコ)と呼称するようになりました。
1928年にイズマエル・シルヴァやビジ、ニウトン・バストス、アルマンド・マルサルなどによって最初のエスコーラ・ジ・サンバ、デイシャ・ファラール(言わせておけ)が創立され、この頃より隣接する地区同士のブロコなどが大同団結し、次々とエスコーラが生まれていきました。
1960年代にはサンバに、ソウル、R&B、ファンクなど他の黒人音楽のジャンルを融合する動きも出てきました。(代表的なバンドは、バンダ・ブラック・リオ)。その後、70年代にはジャルソン・キング・コンボ、90年代にはカルニーニョス・ブラウンらのファンキーなミュージシャンが登場しました。
年一度に行われるカルナヴァルに対し、日常において歌われるサンバをRoda de Samba(ホーダ・ジ・サンバ)、Pagode(パゴーヂ、パゴージ)といいます。昔はパゴージをホーダ・ジ・サンバといっていましたが、1980年代に白人女性であるベッチ・カルヴァーリョが活躍し、カシーキ・ジ・ハモスというブロコ兼サンバ・コミュニティーで主となって活動するバンド、フンド・ジ・キンタウを自身のアルバムで紹介したことからパゴージと呼ばれることになりました。
また、21世紀のブラジルでは、サンバのリズムをベースとしたポップスを差すひとつのジャンルとしてパゴーヂという呼称が使われることが一般的であり、もっともポピュラーな音楽のひとつとなっています。
2016年はサンバ誕生100周年とされ、ブラジルではこれを記念して記念列車の運行など様々なイベントが行われました。

サンバで使用される主な楽器

【パンデイロ(Pandeiro)】
パンデイロは、一般に、サンバやボサノヴァ、ショーロなどで用いられるブラジル風のタンバリン。   プラチネイラといわれる金属円盤(いわゆるジングル)の響きが通常のタンバリンよりも少なくなっており、これによって細かいリズムを明瞭に出すことができる。また、皮の張力を変化させて、音の高さを変えることができる。高音、中音、低音の3要素を持つことにより様々なリズムの表現が可能。 演奏する音楽やスタイルによって大きさ(インチ)や、ヘッドといわれる叩く表面の材質も異なる。たとえば、ショーロでは10インチ程度の大きさで枠は軽い木枠、ヘッドは山羊の革のものがよく使われるが、パゴーヂといわれるサンバなどでは10~12インチで合板の枠で、ヘッドはナイロン、いわゆるプラヘッドのものがよく使われる。


【スルド(Surdo)】
スルドは、ブラジルの打楽器で、主にサンバやボサノヴァなどのブラジル音楽全般で使われる。リズム上ではドラムセットのバスドラムに相当する。筒状の大太鼓で、上下に皮革やナイロン、またナパといわれる合成皮革(これらの「膜」は俗にヘッドと総称する)が使われる。これをタラバルチ(ストラップ)で肩から吊るして演奏する。 サンバは基本的に2拍子の音楽であるが、スルドはこの基本的なテンポを刻む楽器として演奏される。 一人で演奏する場合、片手でバチを持って叩き、もう一方の手のひらで軽くミュート(消音)するか、リズムを軽くとって演奏する。2人以上で演奏する場合は、1拍子目と2拍子目をパートで分ける。 リオのカーニバルにおけるパレードでは、皮革を使うことが常識となっている。なお、自然皮革は水に弱いので、雨が降りそうな場合は皮の上に薄いビニールを張って対策する。これに対し、日本では気候温暖の変化が激しいこと、また費用の安さ、比較的チューニングしやすいことなどから、ナイロンヘッドもしくはナパヘッドが多用される。しかし近年ではブラジルの様式にならい、ナイロンやナパよりも音質の良い自然皮革を使うことも多くなっている。



【ヘピニキ(Repique / Repinique)】
ヘピニキは、サンバなどブラジル音楽で演奏する打楽器の一つである。 10~12インチの胴にナイロン製のヘッドを張り、高めにチューニングした両面太鼓。かつてヘッドの材質は山羊皮が張られていたため、今とは違い低めのチューニングでテンポもやや遅かった。しかし1978年にナイロン製のヘッドに変わったことでチューニングも高くなり、テンポが速くなった。片手でバケッタ(バケタとも)と呼ばれるヘピーキ専用のスティックで打面を叩き、もう一方の手は平手でリムにかかるようにアクセントをつけて打面を叩き、16分音符の4連符を演奏するのが一般的である。ブラジルでは長さ30cmほど、直径2~3cmの太い木製のバケッタが多く使われる。



【カイシャ(Caixa)】
カイシャは、ブラジルのパーカッションのひとつで、主にサンバで演奏される。ドラムセットのスネアに相当する。上下両面にナイロン製のヘッドを張り、響き線が取り付けてある。一般的には12~14インチ程度の大きさである。一般的なスネアドラムよりも太い音色である。日本ではドラムスティックを使って叩く場合が多いが、ブラジルではカイシャ専用のバケッタ(バケタとも)を使って演奏する。 一般的には、タラバルチで肩から吊るして打面を斜めに構え、長さ40cmで直径1.5cmの両端がややすぼまったカイシャ専用のバケッタで叩く。左肩に担いで叩くという変則的なスタイルもある。この場合は右手はカイシャ専用のバケッタ、左手はカイシャを支えながら叩くために、20~30cmほどのやや短めのバケッタで添える程度に叩く。ちなみにこの変則的なスタイルは、警察に手配された容疑者が、年に一度のカルナヴァルには参加したいが捕まりたくないので、顔を隠しながらパレードで叩くために生まれたスタイルだといわれる。



【タンボリン(Tamborim)】
タンボリンは、ブラジルのパーカッションのひとつである。主にサンバやボサノヴァなどのブラジル音楽で使用される。6インチ(直径15~16cm)ほどの円形の小型の片面太鼓で、片手でタンボリンを持ち、もう一方の手でバケッタ(Baqueta)と呼ばれるスティックで演奏する。枠の材質は木胴、スチール、アルミなどがある。 表面に張られるヘッドには、豚や山羊の革ヘッド、あるいはナイロン製のプラスティックヘッド(多くはプラヘッドと略称される)がある。タンボリン専用のバケッタは20cm前後の木製で、これが基本的なバケッタとされる。ホーダ・ジ・サンバあるいはパゴーヂなどの少人数編成のサンバ演奏では、このタンボリン専用バケッタが使われる。テレコ・テコ(Teleco-Teco)という独特なシンコペーションのリズムを基本演奏とする。このテレコ・テコは当初はマッチ箱を楽器として叩く音を擬音化したものであるが、それがタンボリンに応用されて基本的なリズムとなり、更にボサノヴァにおけるギター奏法にも応用された。またリオのカーニバルに代表される大人数編成のサンバ演奏においては音量が必要とされるために、ナイロン製や、しなりのあるジュラコン樹脂などの各種プラスティック製で、30cm前後で3~4本に枝分かれ状になったバケッタが使われるようになった。この場合は、テレコ・テコに加え、タンボリンを半回転させて16分音符の4連符を演奏するカヘテイロ(Carreteiro)あるいはヴィラード(Virado)、3連符を連打するスビーダ(Subida)という奏法があり、大人数編成のサンバでは、このテレコ・テコ、カヘテイロ、スビーダの3つの基本リズムを中心として、他に様々なリズムを組み合わせて演奏する。



【アゴゴ(Agogô)】
アゴゴは、体鳴楽器に分類される金属製の打楽器。いわゆる、2連の鉄琴。 大小2つの三角錐を細い棒を曲げてつないでいる楽器である。小さい方が高音、大きい方が低音となっている。利き手で小太鼓のバチあるいはドラムスティック、またすりこぎなどを持って大小を交互に叩く。 サンバにおけるアゴゴは、高低2連だけでなく3連や4連といったものもあり、これによって様々なアレンジが演奏される。



【クィーカ(Cuíca)】
クイーカは、打楽器に分類される楽器の一種で、皮に垂直に短い棒を取り付けたもの。片面太鼓の皮の内側中央に、この棒をぬらした手やしめった布でこすり振動させることにより、振動を皮に伝え、独特の音を出す。棒を挟む指の力を調整したり、もう一方の手で皮の張力を調整することで音の高低を作ることができる。ブラジル楽器で、サンバなどのブラジル音楽に多く使われる。



【カヴァキーニョ(Cavaquinho)】
カヴァキーニョはサンバやショーロ等に使われるブラジルの弦楽器。 ポルトガルから渡ってきた移民たちが持ち込んだブラギーニャという民族楽器を起源とする。同様にポルトガルからハワイに渡ったものはウクレレに、インドネシアに渡ったものはクロンチョンに変化していった。本来の呼び名はカヴァコ(Cavaco)であるが、この楽器が小さいことから、指小辞の「nho(ンニョ)」を愛称としてつけて、カヴァキーニョと呼ばれるようになったといわれる。鉄弦・4弦で、パリェタと呼ばれるナイロン製の薄いピックで演奏される。



【7弦ギター(Violão de 7 cordas)】
7弦ギター(ななげんギター)とは、アコースティックギター及びエレクトリックギターのバリエーションの一つ。通常のアコースティック・ギター(6弦)及びエレクトリック・ギター(6弦)に弦を1本追加するため、さらに低い音域を使用できるなどのメリットがある。

日本におけるサンバ

日本では、戦前にタンゴ、戦後にマンボ、ルンバ、チャチャチャなどのラテン音楽が紹介され、昭和20〜30年代にラテン歌謡が流行しました。しかしブラジルが南米で唯一のポルトガル語圏であること、ブラジルへの渡航距離や高額な費用などの理由により、サンバはあまりきちんとした形で紹介されたことはありませんでした。
日本の歌謡曲には「白い蝶のサンバ」や「お嫁サンバ」、「てんとう虫のサンバ」や「マツケンサンバ」などと、タイトルにサンバと明記される曲もありますが、曲調やメロディ、リズムなどの点でブラジルのサンバとは大きく異なり、場合によってはマンボやルンバのリズムや曲調のものもあります。これは日本にラテン音楽が紹介された時にそれらがすべて混同されて、そのイメージが現在にも影響しているといわれています。
日本でサンバのイメージが定着し始めたのは、1960年公開のブラジル・フランス合作映画「Orfeu Negro(黒いオルフェ)」以降といわれています。この映画の音楽はボサノヴァが中心だったが、リオのカーニバルという世界屈指の舞踏イベントも映画を通じて日本に知られ、サンバとボサノヴァの境界の曖昧さもあり、サンバも一緒に日本に知られるきっかけとなりました。1960年代前半に世界を席巻したボサノヴァ・ブームの最中、ボサノヴァ興隆の祖であるスタン・ゲッツがアルバム「ジャズ・サンバ」を発表するなど両ジャンルの親和性に好意的なジャズ・プレーヤーが次々とサンバも日本に伝播させていきました。
さらに、渡辺貞夫ら一部の日本人ジャズ・ミュージシャンもボサノヴァを演奏することが増え、合わせてサンバも紹介されていきました。その後70年~80年代にかけてサンバのレコードが日本でも発売されるようになり、一部の熱心な音楽ファンによってリスナーが増え、それを聞いた人たちがサンバを始めるようになりました。
ミュージシャンでは、69年に長谷川きよしが「別れのサンバ」という曲をレコーディングして小ヒットさせ、80年代には、ブラジルから様々なミュージシャンが来日し公演を行っています。
また南青山にある「プラッサ11(オンゼ)」は、日本における最初のサンバハウス(2019年閉店)といわれ、これまでに多くのブラジル人ミュージシャンや日本人によるサンババンドが演奏しています。この他、都内ではサッシペレレなど数店舗がサンバを聴かせる店として存在します。
また80年代には、すでに神戸まつりなど日本各地のイベントにおいて、リオのカーニバルを模倣したパレード形態のサンバも存在していましたが、マンボやルンバなどスペイン語圏のダンス音楽とイメージが多く混同され、マラカスを持ち腕や足にフリルのついた衣装で踊って行進することもあった。このためサンバは単なる仮装行列と見なされることも多々ありました。
1981年に浅草で始まった浅草サンバカーニバルが、現在も毎年8月に開催されており、日本で行われるサンバカーニバル、イベントの代表的なイベントとなったことから、より正確なイメージのサンバが全国的に紹介されるようになりました。このほか首都圏ではサンバ関連のパレードも多く行われ、静岡のシズオカ・サンバカーニバル(5月)、神戸の神戸まつり(5月)など、多くの地域でサンバイベントが定番化しています。日本におけるサンバチームも次第に増えつつあり、旅費も昔と比べて安くなった事からブラジルに行く人も多くり、また日本に出稼ぎで定住する日系ブラジル人もサンバの裾野を広げることに貢献しています。
                    (出典:Wikipediaより)